今日は、ちょっと長い感想文です。
人を好きになることに長けた性格だった。
学生時代、友人から「嫌いな人いないの?」
と聞かれた時の答えはいつも同じだった。
「いない。」
人の話を聞くのが好きだった。
いや、ただ「聞く」のではなく、
「訊く」のが好きだったと言った方が正しいと思う。
どこ出身?兄弟はいるの?から始まり、
どうしてこの大学を受験したのか?
将来どんな人になりたいのか?
なぜ?なぜ?なぜ?と、相手の話を訊くうちに、
相手の物語に「感応」していく。そんな風にして、
相手の人生を生きているような感覚が心地よかった。
だから、本や映画も好きだった。
物語に感応し、同化し、誰かの人生を生きる。
そんな感覚が心地よかった。
今もその性格は、変わらない。
相手の話を訊き、その物語に感応し、追体験する。
若い頃と少しだけ違っていることは、
これまでの物語の先に、これからの物語を紡ぐことを
自分の仕事にしていること。
感応し(好きになることにかなり似ていると思う)、
追体験し、共に未来(物語の続き)を紡ぎ出す。
それが、僕にとっての「話を訊く」ということだ。
話を訊く、小説や映画に触れる、
つまり様々な物語に触れることは、他者や社会を
知ることでもあるけれど、でもそれ以上に、
自分自身を知ることでもある。
誰かの物語を追体験し、自分自身に気づく。
また別の誰かの物語を体験し、自分自身に戻る。
こういうことの繰り返しの中で、様々な他者と
共に生きるために必要な「社会的自我」を
見つけ出していく。
そのような試行錯誤を延々と続ける中で、
人は社会的に成長し続けることができる。
そう考えると、僕は結果的にたくさんの人たち
からの恩恵によって今、ここに生きているという
ことに気づく。
それが、人の物語に触れるということだと思う。
さて、この本、アンダーグラウンドの話だ。
この本は、オウム真理教が引き起こした
歴史的事件である「地下鉄サリン事件」の
被害者たちを、作家の村上春樹氏が取材し、
その被害者たちの生の声をまとめたルポだ。
本文を読んで感じることは、
「誰もが自分の物語を生きている」
「どんな物語も魅力的で、愛おしい」
という、シンプルな「事実」だ。
加えて、この本のあとがきが素晴らしい。
何だか前回の「見張り塔からずっと」に
引き続き、「あとがき推し」でもあるけど、
でもこの後書きは、本当に素晴らしい。
ここで詳しくは書かないけど、この後書き
を読むと、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」、
以前にも紹介した、ミヒャエル・エンデの
「モモ」を想起させられる。
冒頭の「話を訊くのが好きだった」は、
この後書きを改めて読み返して思いついたことを、
文章にしたものだ。
僕たちは、凶悪な犯罪や、理解不能な事件が
起こった時、それは悪だ、最低だと、相手を
ダークサイドに放り込み、あたかも自分は
正しい側にいるかのように思い込んでしまう。
でも、果たして本当にそうだろうか?
物事はそんな単純に解決されるべきなのだろうか?
アーレントがナチスドイツの行った虐殺について、
彼らを悪だと決めつけるべきなのか?という疑問を
投げかけ、同胞であるユダヤ人からも大バッシング
を受けながらも、この虐殺の本当の問題は、私たち
自身の問題なのだと、問い続けたのと同じように、
村上春樹はこの本を通じてオウム事件の本質を自分
自身の問題として考える。
ナラティヴセラピーの開発者として知られる
マイケル・ホワイトは、こんな言葉を遺している。
「人が問題ではなく、問題が問題である」
そう、僕たちは事件や問題が起こった時、ついつい
誰かのせいにしてしまいがちだ。
でも、問題が起こる要因は、人にあるんじゃない、
問題そのものの中にあるんだとホワイト氏は言う。
僕も、まったくその通りだと思う。
見えている事件や問題の奥の奥にある問題の本質を
ちゃんと追求しなくちゃならない。
見えているものなんて氷山の一角でしかないんだ!
っていう「システム思考」みたいに、僕たちは常に
「なぜなぜなぜ?」って、考え続けなくちゃならない。
誰かを犯人に仕立て上げ、ダークサイドに排除して、
「はい、解決!」ってわけにはいかない。
それじゃ、何も解決しないどころか、問題は先送り
されて、さらに病巣は深くなっていくだけだ。
僕たちは、立ち止まらなくちゃならない。
立ち止まって、考え続けなきゃならない。
この本は、そんなものすごーく大切なことに、
改めて気付かせてくれる本です。