痛快だけど、深い。三島由紀夫が好きになる本。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
この諺が、まさにぴったりハマる小説だった。
自分を捨ててこそ自由になれる。
しかし、「自分が自由になるために自分を捨てる」
という行為は、自分を捨ててはいない。
何も考えず、自然と、
あるいは結果として自分を捨て去った時、
人は自由を手に入れる。
無理だろう、普通は…。
無の境地に辿り着くために修行したブッダ。
武士道を極めようとした宮本武蔵。
超人の領域だ。
死を覚悟し、受け入れた瞬間なら、
我々にも可能性があるかもしれない。
でも、それは遠い。
僕たちは、生に執着する。
欲望に執着する。
自分に執着する。
自由を求め、支配されることを拒む。
だけど一方で、僕たちは、流され続けてる。
無意識に無防備に、時代に、世間に流され続けてる。
そこには「自分の意思」なんてないように見える。
自分の意思があるように見えて、実はほとんどの人が、
「意思」について語ることさえできないから。
だからね…
僕たちに意思などない、そうも思えるわけです。
だけど、僕たちは自由じゃない。
いや、自由だとか不自由だとか、
そんなことさえ意識していないのかもしれない…。
自由に生きるって、魅力的な言葉だけど、
なかなか大変だって思った。
そして、三島由紀夫という大作家もまた、
自由に生きるっていうことについて、
深く深く、考え続けていたんだなーってことが、
この本を読むことで少しは理解できたような、
そんな気がする。
さてさて、この本の解説がまた面白い。
ちょっと引用するね。
三島由紀夫「命売ります」の解説「種村季弘」
重力の法則が支配している地上にしばりつける「自分の意思」とやら、
つまりは人間の重荷である自我をあっさり放棄してしまえば、
この世に束縛するものは何もなくなる。突然あたりは無重力空間と化し、
彼は熱気球のように無限の虚空を漂遊しはじめる。
あの「何ものか」に命をあずけたとき、
逆説的にも無際限の自由の感情が生まれたのである。
命は鴻毛のように軽く、私は無だ。
だから私は、無のように自由だ。全能だ。
(中略)
すなわち、武士道とは死ぬことと見つけたりの「葉隠」の美学。
あるいは命を鴻毛の軽きにたとえた
(戦中の特攻隊員を鼓舞した)滅私奉公の思想こそが金無垢の中身であって、
ハードボイルドはかりそめの舞台装置に過ぎないのではあるまいか。
命を捨てて自由を気取っていても、所詮は人間。
死を恐れ、孤独を恐れ、凡庸な性に対する飢渇に近い憧れの感情。
小説家三島由紀夫の魂の告白があると思えてならない。
うーん、奥深い…。
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◆参考文献
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
[意味]
一身を犠牲にするだけの覚悟があって初めて、活路も見出せる。
[解説]
和歌や川柳から出たことわざは少なくないが、これもその一つ。
空也上人(くうやしょうにん)(903~972)の作と伝えられる
「 山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」
(山あいの川を流れてきたトチの実は、
自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、
こうして広い下流に到達することができたのだ)
(『空也上人絵詞伝』)
という歌が出典。
「浮かむ瀬」は原歌では、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意だが、
これを窮地から脱して安泰を得るという、世俗一般のこととして、このことわざは使われる。
自分を大事と思って、我(が)に執着していてはなかなか道は開けてこないというのである。
(『成語大辞苑』主婦と生活社)
http://www2.odn.ne.jp/kotowaza/00-HP/sub26~/sub30/sub30-1-miwo-sute…